プライドが「赤ん坊」に戻された意味
鋼の錬金術師の最終話で最も意味深い描写の一つが、プライド(セリム・ブラッドレイ)が赤ん坊に戻され、ブラッドレイ夫人の元で人間として育てられることになったという展開だ。七つのホムンクルスの中で唯一「やり直し」の機会を与えられた存在として、セリムの未来には大きな意味がある。
プライドは「傲慢」の名を持つ最古にして最強のホムンクルスだった。人間を見下し、自らの力を誇るその姿は、お父様の傲慢さを最も色濃く反映していた。そのプライドが全ての力を失い、無力な赤ん坊として生まれ変わったことは、皮肉であると同時に希望に満ちた展開だ。
「この子には何の罪もないわ」
ブラッドレイ夫人のこの言葉は、ホムンクルスという存在に対する「赦し」を象徴している。プライドがかつて行った残虐な行為にもかかわらず、赤ん坊に戻った以上は新たな存在として扱うべきだという判断は、作品のテーマである「人間の可能性」を信じる選択だ。
エドワードが赤ん坊のセリムを殺さなかったことも重要な伏線的選択だ。エドは「殺さない」を貫く主人公であり、この選択は物語全体の倫理観と一致している。しかしこの選択が本当に正しかったのかは、セリムの未来次第だ。
ホムンクルスは「人間」になれるのか——グリードの前例
セリムが人間になれるかどうかを考える上で、最も重要な前例がグリードだ。グリードはホムンクルスでありながら、仲間との絆を築き、最終的に自己犠牲的な行動で散った。これは「人造人間にも人間性が宿り得る」ことの証明だった。
初代グリードは部下たちとの関係を「所有」と表現していたが、実際にはそれは「絆」だった。デビルズネストの仲間たちを守ろうとした初代グリードの行動は、「強欲」の名にふさわしい——彼は仲間の命を「自分のもの」として守ったのだ。
グリード:仲間との絆を通じて「人間的な感情」を獲得
ラース:人間として生きる中で「選んだ妻」への感情を持った
ラスト:死に際にロイ・マスタングの炎に対して恐怖(≒生への執着)を見せた
エンヴィー:人間への嫉妬が動機 → 人間になりたかった可能性
二代目グリード(リンの体に宿ったグリード)は、さらに踏み込んで「人間との共存」を体現した。リンという人間の意志と共存する中で、グリードは徐々に「人間的な価値観」を理解していった。最期に「全部ほしかったんだ……こんな仲間がな」と語ったセリフは、ホムンクルスが到達しうる最高の「人間性」だった。
これらの前例を考えると、セリムが人間として育てられることで「人間性」を獲得する可能性は十分にある。しかし問題は、プライドの記憶が完全に消えたのかどうかだ。
最終話のエピローグで、成長したセリムがエドワードに対して微妙な表情を見せたコマがある。これが「プライドの記憶の残滓」なのか「普通の子供の反応」なのかは判断がつかない。荒川弘はここでも答えを読者に委ねている。
ラース(ブラッドレイ大総統)の「人間性」が示すもの
セリムの未来を考察する上で、もう一人重要なホムンクルスがラース(キング・ブラッドレイ)だ。ラースは七体のホムンクルスの中で唯一、人間の体をベースに作られた存在だった。この特殊な出自が、ラースに他のホムンクルスとは異なる「人間性」を与えていた。
ブラッドレイは最期に、妻との結婚が「自分で選んだ」ものだったと語った。計画の一環として人間の妻を持たされたはずのラースが、その中で「選択」という人間的な行為を行っていたのだ。
「妻だけは自分で選んだ。それだけは誰にも指図されていない」
このセリフは、ホムンクルスに「自由意志」が存在するかという問いへの部分的な回答だ。お父様の計画の道具として生まれた存在が、その計画の枠内で「自分の選択」を行った。完全な自由意志とは言えないが、完全な操り人形でもない。
ラースのこの人間性が「人間の体がベースだったから」なのか「人間と共に生きたから」なのかは判然としない。もし後者なら、人間として育てられるセリムもまた、環境によって人間性を獲得できるという推論が成り立つ。
しかしラースは最後まで「怒り」の感情を捨てなかった。彼の人間性は限定的なものであり、「完全に人間になった」とは言えない。セリムが同じように「傲慢」の残滓を抱え続ける可能性もあるのだ。
エンヴィーの最期が暗示する「ホムンクルスの本質」
ホムンクルスの中で最も「人間になりたがっていた」のはエンヴィー(嫉妬)ではないかという考察がある。エンヴィーの最期のシーンは、自分が人間を羨んでいたことを指摘され、涙を流しながら自ら命を絶ったという衝撃的なものだった。
エンヴィーは「人間など取るに足らない存在だ」と常に見下していた。しかしエドワードに「お前が一番人間が羨ましいんだろう」と指摘されたとき、エンヴィーは否定できなかった。「嫉妬」という名前そのものが、エンヴィーの本質——人間への憧れ——を示す伏線だったのだ。
「ホムンクルスが……人間を羨むなんて……」
このエンヴィーの最後の涙は、鋼の錬金術師で最も悲しい場面の一つだ。人間を憎み、蔑み、攻撃し続けたエンヴィーが、実は最も人間になりたかった存在だった。この逆転の構図は、ホムンクルスという存在の本質に関わる重要な示唆を含んでいる。
もしホムンクルスが「お父様から切り離された感情」の集合体であるなら、それぞれのホムンクルスは「人間の一部」を持っていることになる。つまりホムンクルスは最初から「部分的な人間」なのだ。
セリムの未来が持つ物語的意味
セリムの存在は、鋼の錬金術師の最終的なテーマを象徴している。過去に何をしたかではなく、これから何をするかが重要だという、作品全体を貫くメッセージの具現化なのだ。
エルリック兄弟は「過去の過ち(人体錬成)」を背負いながらも前に進む物語を生きた。イシュヴァール人であるスカーは「復讐者」から「協力者」へと変わった。ロイ・マスタングはイシュヴァール殲滅戦の罪を背負いながら国を変えようとしている。全てのキャラクターが「過去からの再生」を体現している。
セリムは、この「再生」のテーマの究極的な例だ。最も傲慢で残酷だった存在が、最も無力な赤ん坊として「やり直す」。これが成功するかどうかは描かれなかったが、可能性が残されたこと自体が重要だ。
荒川弘がセリムの未来を明確に描かなかったのは、答えを読者に委ねるためだろう。セリムが人間として幸せに生きる未来を信じるか、プライドの記憶が蘇って再び脅威となると考えるか——その判断は読者の「人間に対する信頼」の度合いを映す鏡になっている。
セリムの存在は、鋼の錬金術師のエピローグに残された最も美しい伏線だ。物語が終わった後も「その後」を想像させる力を持つこの設定は、作品の余韻を永遠のものにしている。
人造人間は人間になれるのか——この問いに対する答えは、作品の中にはない。しかし鋼の錬金術師が一貫して描いてきたのは、「可能性を信じて進み続けること」の価値だ。セリムの未来もまた、その可能性に賭けた選択なのだろう。